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    恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。

    房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つているところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。

    人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつりになつたものらしい。だが、道平の声音こわねはあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。

    柳里恭りゅうりきょうの『雲萍雑志うんぴょうざっし』のうちに、こんな話がある。

    両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、またその代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日は求め得られない。

    「なんですよ、あんまり貴方あなたの評判がいゝもんですから、さういふ方ならぜひ一度自宅うちでも診ていたゞきたいと思ひましてね」

    「ふうん、それもよからう」

    伊東は市ではあるが、熱海とは比較にならないほど、ひなびている。けれども温泉場であるから、道路には広告塔があって休むことなく喋りまくり唄いまくっているし、旅館からは絶え間なくラジオががなりたてて、ヘタクソなピアノもきこえる。先方も商売であるから、静かにしろ、と云うわけにはいかない。

    「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」

    房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つていた。そして葉の落ちた無花果いちじくの木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つている中空に張つていた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつている台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土たたきの上に一種きは立つた明さで流れていた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場の煤すゝけた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいていた。

    さういふことで、彼は先づ一段の希望をかなへることができた。彼は二年間東京で法律書生として苦学したが、中途で方針をかへて医学をやることにした。これには例の伯父の意見が大分加はつていた。しかしこれも中途で兵役にとられたため、一寸一頓挫を来たした。彼は看護卒を志願した。二年の後彼は又東京へ出て来た。そこで様々な生活を経験した末、又もや医学をやる決心をかためた。その前後が彼としては一番危険な時期であつた。株式店につとめてみたり保険の外交員を志したり、それは自分の望みがいたる所で達しがたいと思はれる時の不安定な、投げやりにしてみたりとび立つやうな焦燥の念に駆られたりする、そして、様々な名誉や成功やが赭々あか/\と輝いて見える此の世間といふものの裏、物には必らず裏があるといふ事実をはじめて覚つて、そのために自分が素晴らしく大人になつたやうな気持にならされ、自分には世の中の裏を見抜く眼があるのだと過信する時期の、非常に不従順な暗い数々の失錯や不始末をやつた。その頃の彼は一体どんな職業に従事しているか解らないやうな風貌と服装をしていて、仲間のほかには誰も彼をあたり前な眼つきでは見なかつたし、彼の方でもそれを太々しく白眼視して過した。だが、仲間の一人が或る詐欺行為で警察に引つぱられて、彼も危ふくその連累を蒙るところであつたが辛うじて免かれた、その時以来彼はそんな生活に見切りをつけた。様々な関係から足を洗ふために、彼は一度故郷に帰つた。短い滞在であつたが、久しぶりに見る近親の温かさや故郷の山河が何年かの放浪生活のうちで疲れ汚がされ眠らされた彼の魂、成功の野心と正しい生活への慾望とをよびさました。

    「それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎あいにくこはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね」

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